はじめまして!西舘です。
(yuki-nicccyとか言ってますが、西舘って苗字です笑)
僕は現在、札幌市内にて「BAR PENCIL VANI;LLA」の代表として、多くの素敵なお客様に囲まれて日々楽しく生きています。なお、「バーテンダー」という名称のイメージがやや重たい感じがしているので、自分のことは「BAR屋」と呼んでおります。
大学3年生の冬にアルバイトとして入社、その後はあれこれ叱られ、あれこれ成功と失敗を繰り返しながらもなんとか這いつくばって仕事に邁進。そして若干25歳の時に店長に抜擢されました。(若干とか自分で言うあたり、「若いのにすごいね!」って言われたい感バリバリ出しすぎ笑)
それからは、非営利団体様のノンアルコールカクテルのセミナーで講師をしたり、市内にありますパティシエやバリスタを育成する専門学校にて外部講師として酒類概論の授業を担当させていただいたりしました。また、「PBO(Professional Bartender’s Organization)」というバーテンダー協会におけます「プロフェッショナル・バーテンダー資格認定試験」に合格して、「PBO認定バーテンダー」という肩書も一応持ってます(←あまり活用したことないですが・・・笑)。あ、僕が独立開業前に働いていた会社内のカクテルコンペで優勝したことも実はあります(2012年のこと。その後は予選落ちが続き、『たまたその年の運を使い切っただけ!!』だという確固たる証明になっている現実・・・辛すぎる・・・)。
僕が出会いの数々に溢れている「バー」「BAR」という場所を生業に選んだ理由はただひとつだけ。
「モテると思ったからです!」
うだつの上がらない小学生&中学生時代、不登校を経験した高校生時代、昔クラスにいた人気者みたいなポジションを目指しながらも結局は主役の座を射止められなかった大学時代前期までの”弱気で何も特徴がなかったつまらない自分”にメスを入れるために「バーテンダーってなんか格好良くない?」という安直かつ厨二病な発想のもと飛び込んだバーテンダーの世界。
そこには今まで自分が生きてきた中では見ること、知ることなんてありえなかった笑いと葛藤に満ちた景色がありました。メスは予想以上に深い箇所まで切り目を入れてくれたんですよね。
その結果、今は「モテたいからです!」と言っていた当初の動機よりも強く思うバーで働く上で見ている景色があります。それが「大人による大人のためのサードプレイスを作る!」です。
(今でもモテたい願望ももちろん全然ありますよ笑)
ってことで、ここでは僕の生い立ちや今までのBAR屋人生を振り返ると共に、僕がどんなことを考えて日々生きて、日々働いているのかについて綴っていきます!
※「note」でもいろいろ書いてます。300記事超えてます。よかったらのちほどどうぞ笑。
弱気で自分らしさなんてひとつも出せなかった小学生&中学生時代
小中学生だった頃の僕は傍から見ればホントにどこにでもいるような普通の子供でした。でも今振り返れば全然楽しくなかったんですよ。
それはなぜか。
当時の僕は自分らしさを何一つ出すことができなかった弱気な自分だったから。
ま、人見知りだったんですよ。病的な。
その上、独りになることが怖かったから周りの同調圧力に乗っかってなんとなくみんなと同じような遊びをして、みんなと同じようなことを話して。その結果、学校で孤立することはなかったんですけどなんか腑に落ちない毎日を過ごしていました。
弱気な性格が前面に押し出ていたため、いつも一緒にいた友達と目を合わせることもできず、気軽に名前を呼ぶこともできず、でもなんとなく一緒にいて、なんとなく一緒に登下校して、なんとなく一緒の塾に通ってた。結果、今も繋がりがある当時の友達はひとりだけ。(こいつはホントに優しい。いつも感謝しかしてない)
クラスを牛耳ってた不良グループにビビってたから、音楽祭の時の歌う立ち位置を代わってと言われて怖くて代わったり。人見知りだったから前列になんていきたくなかったけど「え?嫌だ!」なんて口が裂けても言えなかった。
「もっと自分らしく生きたいな・・」ってなんとなく思いながら生きてました。「自分らしく」の意味も答えも何一つ持ってなかったくせに。
小さな心が崩壊した高校入学初期
それでもなんとなく学校に行って、それなりに勉強してたら高校生になってました。通った先は地元でもぼちぼちの進学校。ここに決めた理由は「家から一番近かったから」。ま、高校なんてこのくらいの理由でみんな決めてたはずだけど。
高校って小中学校と違って色んな学校から生徒が集まってきます。なのでクラスに知り合いなんてほとんどいなかったわけですよ。もともとたいして仲良しな友達だっていなかった僕は尚更。
「入学した最初の3日間が今後の高校生活において一番大切な時期だ!」
楽しい高校生活にしたかったし、何よりクラスで孤立することを誰よりも怖がってた僕は最初の3日間にすべてを賭けるくらいの気持ちでいました。周りの同級生もきっと同じことを思ってる。条件は一緒。「先手必勝だ!」と先ゆく3年間の花道を脳内で描いてました。
でも、現実はそんなにうまくなんていかなかったんです。
僕、ホント人見知りだったんでまず「先手必勝だ!」なんて考えてたって誰にも声なんて掛けられなかったんです。声を掛けようって思うだけで心臓が異常なほど動くし、「もしキモイとか思われたらどうしよう・・」なんて不安ばかりが先行して口が開かなかったんです。
唯一声を掛けることに成功したのは前の席に座ってたT君の髪にゴミが付いていた時。
「あ、ゴミ付いてるよ!」
それだけ。「ありがとう!」って言われてハイ終了。そこから話を広げる力なんて全くなかったので。
そんな感じで最初の3日間が過ぎました。僕が仲良く話すことができるようになったクラスメイトの数を発表します。
ゼロ。
てかきっかけさえ自分で作れなかったです。完敗。無力。なるべくしてなった結果だったなと。
それでもさすがに通いました。自分のクラスなのにアウェイ感がハンパないその状況は求めていた景色とは真逆でしたけど「学校はちゃんと行くものだ!」って思ってたからホントは行きたくなかったけど頑張っていきました。
1週間は。
その後、僕はそのクラスの扉を開けることをやめました。いいや、開けることができなくなったと言った方が正しいです。
朝起きて高校に行こうって考えるだけで涙が出るようになったんです。「行きたくない!行きたくない!行きたくない!」って感情と「行かなきゃ!行かなきゃ!行かなきゃ!」っていう感情が正面からぶつかって。でも前者の感情の方が明らかに力が上でした。
僕はその日から朝、布団から出ることがなくなりました。はい、不登校児の仲間入りをしたんです。
毎朝、絶望的な目覚めだった1週間から解放された僕は少しだけ元気を取り戻した気がしました。好きな音楽を聴いて、好きなゲームをして、好きなテレビを観て、好きな時間に寝る。高校のことを考えないだけでこれだけ精神って健やかな状態になるのかと呆気にとられたんです。
それでも、「やっぱ高校に行かなきゃ!」って義務感みたいなものはあって、そこに向き合おうとすると自然と涙が出てきちゃってたんです。相当怖かったんですよね、あのアウェイな空気の中で過ごすってことが。
泣いてる時はいつも母が傍にいてくれました。15歳にもなって母の懐で泣きじゃくる自分は酷く恰好悪かった。でも一番泣き止むのが早かったのは母の懐でひたすら泣いた時だったのも事実で。
「少し休みなさい」
母は「早く学校に行きなさい!」とは言いませんでした。最初の頃は言ってたんですけど、急に泣き始める僕を見て途中から一切そんなことは言わなくなりました。察してくれたんです。
それからは色々話しましたね。僕は高校に行かなきゃいけないってことは理解しつつも完全に辞めたい気持ちになっていたので父と母はその気持ちを汲んでくれて代替案や改善案をたくさん提示してくれました。
「定時制の学校があるよ」とか。「転校もできるよ」とか。
で、僕はと言えば「道南に行って牧場で働きたい!」なんてことを言ってましたね。ずっと馬が好きでホントは競馬の騎手になりたかったんですよ。でも本気でなりたいなんて思ってなくて、だから自分で騎手の学校について調べたりもしなかったし、入学には身長体重制限があることだけは知っていたので「このくらいの身長だったら無理でしょ!諦めるわ!」とか言って自分に言いわけをしていました。ホントはただ単純に地方に一人で行くことが怖かっただけなのに。
そして、父と母は僕にひとつの課題を与えました。
「気分転換におじいちゃんおばあちゃんの家へ行ってきなさい!」
え?ひとりで?むりむりー。行ったことないし。
おじいちゃんおばあちゃんの家は札幌から車で約5時間かかる場所にありました。いつも父が運転する車の後部座席でゲームボーイをしながら到着するのを待ってただけだったので一体全体どこにあるのかもわからない状態。
それでも父と母は「行ってきなさい!」と強く念を押しました。
15歳。初めての一人旅が決まった時でした。
数日後、リュックに最低限の衣服、お菓子、そして大切だったCDプレイヤーを入れていざ出発。JRのチケットの買い方はなんとなく説明を受けていたのでスムーズに買うことができました。そしておじいちゃんおばあちゃんの家へ向かう一人旅がスタート。
車窓から見る大自然に癒しを感じる15歳。大自然を見ると自分の存在なんてホント小さなことであれこれ悩んでいるのが恰好悪いなって思えてきて(←曖昧ですがたぶん思ってました笑)急に虚しくなったりしてました。
道中に聴いていたCDはゆずの「ゆずマン」ってアルバム。ヴィジュアル系が大本命だった僕ですがオールナイトニッポンの影響でゆずも大好きだったんです。そして何より当時の自分の心に病的に刺さる歌詞。車内で泣くのは恥ずかしかったので我慢しましたけど半泣き状態でずっと聴いてました。
関連記事:根暗だった僕でしたが、実は全国ネットのラジオでハガキが読まれていたって話
かれこれ数時間のJRの旅。気付けばおじいちゃんおばあちゃんの住む町まで到着。何度も見た妙に懐かしい景色がそこにはありました。
おじいちゃんおばあちゃんの家に2泊したんですけど、ふたりは僕に学校のことを深くは聞いてきませんでした。今思えば人生経験の豊富さによる懐の深さだったんでしょうね。僕が話したくないことはあえて聞かないっていう。
何人前かわからないほどに盛り付けられた地元のお刺身にジュース。
広い客室。
何も咎められない自由な時間。
まるで王様にでもあったかのような贅沢な2日間を過ごして帰路に着きました。
そして札幌に帰ってきた僕は少しだけ元気を取り戻したのか気持ちに変化がありました。少しだけ前向きな感情が生まれていたんです。
「これからどうしようかな・・。学校に行く?どうする自分・・」
そんな時に父と母と一緒に出向いたのが近所に住んでた地元の私立高校の元校長先生の家でした。
小さな頃に何度か会ったことがあったような気がしたのであまり緊張せずにいられました。その元校長先生は優しい笑顔と穏やかな口調の持ち主で、おかげでとても話が聞きやすかったことを覚えています。
そして、この元校長先生の話に触発された僕は遂にもう一度学校に行くことを決意したんです。
心折れて泣いて、ひとりで旅をして、ちょっとだけ元気になって、最後は再出発の決断を自ら下す。
今まで起こってきたすべてのことが点から線になった瞬間でした。
1年生の時の絶望的な毎日
満を持して「さ、行くか!」となった僕。さすがに緊張しましたが妙に肩の力が抜けていました。一周回ってどうにでもなれって感じだったんでしょうね。あんま覚えてないけど。
復帰初日は少しだけ時間をずらして登校しました。朝のホームルームの時間が精神的に一番辛い気がしたから。クラスメイト同士の雑談の時間が怖かったんです。授業中が一番気楽。なぜなら誰とも話さなくていいから。ひとりでいてもジロジロ見られないから。
ホームルームの最中に僕はクラスの扉を開いて教室に入りました。今思えばこの方法が一番クラスメイトの視線を浴びることになるのになぜこの方法を選んだのかいささか不思議でなりません笑。
たぶん大してざわついてなかったんでしょうけど、僕にはクラスがざわついた気がしました。
A.「え?誰だっけ?」
B.「あ、急に来なくなったやつじゃない?」
C.「へぇー来たんだ」
って言われてたかどうかはわかりませんが、なんかそんなようなことをみんなが話してるような気がして一気に前向きな気持ちが萎みました。妄想癖のレベルだけは異常だった。
何人かのクラスメイトは僕に優しく声を掛けてくれました。
D.「よく来たね!」
E.「久しぶり!」
F.「これから仲良くしような!」
嬉しかった。もう発狂するくらい嬉しかった。これで高校生活を満喫できると安心感に浸っていました。
ですが、僕はなんかの病気だったんです。
仲良くしよって言ってくれてるクラスメイトに僕は自分から積極的に絡むことができなかったんです。あっちが声を掛けてくれる以外には話さない。いや、話し掛けることができなかった。変な病気だったんです。
最初のうちは良くしてくれたクラスメイトも僕が今でいう”塩対応”だったせいで徐々に声を掛けてくれなくなりました。お昼ご飯はいつもひとりで食べて、お昼休みはやることがないから校内をひとりでグルグル歩き回って時間を潰す毎日。1階の水飲み場に行って一口水を飲んだら次は2階の水飲み場に行ってまた一口水を飲む。3階の水飲み場で一口水を飲んだら1階まで戻ってまた一口水を飲む。そしたらトイレに行きたくなるからトイレに行く。手はカサカサになるんじゃねってくらいゆっくり洗う。
ホントつまんなかった。「なにしてんだろ自分・・」って毎日自分を責め続けた。
一番辛かったのは学校行事。
体育祭の時は最後まで所属スポーツが決まらなくてその時人気がなかったバスケをすることに。誰とも絡まずに試合にもほぼ出れず。
学校祭は準備はなんとなくこなしたけど当日は風邪を引いたことにしてサボりました。
合唱コンクールでは大きな声で歌うことができなかったから名指しで怒られまくって最後は空気みたいな扱いをされました。
こんな感じの絶望的な毎日を過ごした僕。
ですが、最後に光が差しました。
先生:「2年生になったらクラス替えをすることになりました」
え?
僕の高校は2年生の後期の時にクラス替えがある予定だったんです。つまり、3年間で2つのクラスに所属するルールです。なのに2年生の前期でクラス替えがあると言われました。
ちなみに僕の高校の歴史上初だったそうです。
その理由がまたびっくりだったんです。
先生:「クラスごとの成績のバラつきが大きいので2年生前期だけの半年間限定のクラスをつくることにしました」
これ、あとからよーく考えたんですけど、僕のクラス、めちゃくちゃ成績が悪いメンバーが多かったんです。だって僕の座ってる席の縦1列に成績ワースト5が3人もいたんですから笑。←僕込みで。
てことで、起死回生のチャンスが訪れることとなりました。
自分から初めて行動して変わった高校後期
そして無事に2年生へと昇格した僕。(←めちゃくちゃサボってたけどちゃんと出席日数の計算だけはしていたので笑)
1年生の時と同じ轍は絶対に踏まないと心に決めていたので初日からまるで別人かのように積極的に近くの席にいるクラスメイトに声を掛けたんです。
1年生の時に同じだったクラスメイトも何人かいたんですけど、その子たちの目線なんて気にも留めずにただひたすら、自分のできる限りのコミュ力を駆使しました。
本当は怖かったですよ。「急にどうしたあいつ」って思われるのも嫌だったし、「なんかめっちゃ話しかけてくるじゃん!」って思われるかもしれないって考えると心臓がバクバクもしました。
その怖さに打ち勝った当時の自分には本当に感謝してます。そしてもし今当時の自分に会うことができるのなら「よく頑張ったね!」と言ってあげたい。
結果はすぐに出ました。
お昼ごはんを一緒に食べてくれる友達ができたんです。そのあとに一緒にお話ししてくれる友達もできました。
もうひとりでお昼を過ごすことがなくなった。その事実だけで別世界でした。人生が180℃変わったって言葉の意味はきっとこんな状況の時に使うんですよ、きっと。
そして、夏には人生初の恋人までできたんです。相手はクラス替えの初日に見かけて秒で一目惚れした子。
関連記事:不登校だった僕が一目惚れした子とお付き合いできた話
やればできる。そう。誰だって。そしてそれはやった人にしか教えてくれない神様が作った鍵付きの世界だと思っています。
大学1年生の英語の授業で何気なく話した夢から始まった我流道
楽しい学生生活に転換された2年間はホント一瞬に過ぎ去って、気付けば大学生になってました。
大学に行った目的はただひとつ。
「やりたいことを見つけるため」
夢とか希望とかなんとなくあったんですけどどれもこれも抽象的で自分でも何言ってんだかってレベルだったので、4年間ある大学生活の中で見つかればいいなって思って。(アルゼンチンで金を掘り当てるとか言ってましたからね笑)ま、端的に言えば「格好良い仕事に就きたい!」って考えがあったのでその格好良さって何かを知るためっていうか。
いや、嘘つきました。単純に「まだ働きたくない!」って感じだったからです。はい、すいません。
「格好良い仕事に就きたい!」って言うのはホントにあったんですけどね。もともとバンドマンとか美容師さんとかに憧れてたし。その影響でなんとなく毎日スーツを着て、電車に揺られて出勤するみたいな街中でよく見かける「サラリーマン」になりたくないなって漠然と思っていて。
でも何も自分から探そうとしたり行動したりはしてなかった。地頭でひたすら「何かないか!何かないか!」って考えてるだけ。それでも「4年もある!きっと何か見つかる!」って信じて毎日をなんとなく過ごしていました。
1年生の夏。初めてのアルバイト先は僕の中では「行動に移した!」っていう小さな体験になりました。
そのアルバイト先は競馬場の警備員。
僕、ずっと競馬が大好きで本気で騎手になりたいって思ってたんです。でも何も自分で動かなかったので結局夢のままで終わりました。そんな時に見つけた競馬場のアルバイト広告。
「行くしかないしょ!」
テレビで見ていた馬が目の前を走っているって状況だけで興奮してましたね。こんな毎日が過ごせたらさぞ楽しいだろうなって。
でもなんかなりたい職業科と言われれば違ったんですよね。何が違ったかっていうと「あんま恰好良くないな」と。
じゃああなたの言う格好良さって何なんですか!?って話なんですけど笑、やっぱ華やかな舞台に立っていることが自分の中の恰好良さだったんです。
じゃあ華やかな舞台って何なんですか!?って話に発展していくわけで、そんなことをひとつひとつ掘り下げていった時期にひとつの場面を迎えました。
それは大学の英語の授業中に行われた生徒同士で行うマンツーマンでのディスカッション。
詳しい内容は忘れちゃいましたが、たいして仲良くもないクラスメイトと組んだ僕は当たり障りのない話をしていたんですけど、そのクラスメイトにこんなことを質問されました。
クラスメイト:「西舘君って将来の夢ってあるの?」
(~_~;)
その質問をされた瞬間、ギョッとしました。だって、はっきりとした夢なんてなかったんですもん。「夢?今探してる!」とか言ったら恰好悪いかななんて当時は思っていたので何か言わないとって必死に足りない頭を使って考えてみたんです。
その時にふと浮かんだ仕事がありました。
僕:「あ、そうね、バーテンダーとか恰好良さそうだからやってみたいかな!」
今までリアルに考えたことなんて少しもなかった「バーテンダー」という仕事。たしかに格好良い仕事だよなとは何となく思ってはいたものの、「こんな自分にできるのか!?」「コミュ障だぞ自分!!」「てかススキノ怖い!!」っていう自分には向いていないことを証明するような理由ばかりがバンバン浮かんじゃってました。
ただ、めちゃくちゃ興味が沸いた瞬間でもありました。もしバーテンダーになったとしたら・・・
僕①:「モテそう!」
僕②:「キャーキャー言われそう!」
僕③:「バレンタインの時は段ボールに収まりきらないくらいにチョコ貰えそう!」
って思ったんですね。しかも本気で笑。
振り返ればこの時に僕の夢の根幹は決まったんです。ありがとう!たいして仲良くなかったクラスメイトさん笑。
それからは求人広告で「バーテンダー」の募集要項を探すようになりました。
でも、それから約2年間は別のアルバイトばかりをしました。
カラオケボックス、ピザのデリバリー、カニの足をひたすら切る仕事、ひたすらベルトコンベアーから流れてくる大根の向きを整える仕事、巨大倉庫での荷物の仕分け、家電製品の納品補助・・・。
どれもこれもバーテンダーからは程遠いアルバイトばかりをしてきました。
まだ自分にはバーテンダーなんて向いていないっていう恐怖心が勝っていたんです。いや、なんかバーに面接の電話をすることにビビってました。舐められそうで。
そんなアルバイトばかりを繰り返していたら気付けば大学3年生の秋になってました。
僕:「あ、やば!もうちょっとで卒業じゃん!」
周りの同級生は就職活動を始めていた時期。自分はなんとなく周りの動きに遅れを取らないように似たような就職活動をたまにする日々。
このままじゃなりたい自分になんてなれない・・。
興味ない仕事になんとなく就くことになる・・。
そこでエンジンがやっとかかりました。遂にバーで働くことを決意したんです。
最初のバーの面接には落ちました。ホント人見知りが酷かったし、ススキノだし派手でも問題ないしょって思ってたので茶髪にネックレスをつけて面接を受けたんです。もう論外ですよね笑。21歳にもなって何も社会のことを知らなかった。若気の至りじゃ済まされないくらい子供だったんです。
バーの採用広告はとても少なかった。これ以上不採用になったらいよいよ受けるバーがなくなることを恐れた僕は心機一転、落ち着いた格好と姿に自分を繕ってとあるバーの面接へと向かったんです。
そこの店長は僕に可能性を感じてくれたようで、すぐに採用を決めてくれました。
関連記事:バーで働き始めた当初の僕は素直じゃない出来損ないだったって話
人生が動いた記念すべき日は2006年11月30日。ここからサクセスストーリーが待っているはずと信じて疑いませんでした。
お客様の優しさに触れて気付いた「職業:BAR屋」の魅力
僕が働くことになったバーは今思えばホントに「神バー」でした。
イケメンの人気店長、腕利きのプリンス的マネージャー、ムードメーカーの社員さん、可愛いけど気の強いチーム年下2人組。
関連記事:何もできない大学生だった僕がマネージャーに喧嘩を売った話
お客様はどなたも穏やかな雰囲気の持ち主で、入ったばかりの大学生アルバイターの僕にも優しく声を掛けてくれました。
「モテたい!」って思って飛び込んだバーの世界だったのに、結構早い段階でそのモチベーション以外の目的を見つけることができた気がします。
最初に仲良くして下さったのは5個上の女性のお客様。週に5回は来てましたね。ネット関係のお仕事をされている方で、何はともあれめちゃくちゃ優しかったんです。なのに最初から「西舘はさ、どうしてバーテンダーになろうと思ったの?」なんて聞いてくるあのギャップ。どう見ても「西舘くんはさ」的な穏やかな言い回しで接してくれるのかと思ったら秒で呼び捨て笑。
関連記事:「君」とか「さん」付けじゃなくて「呼び捨て」にされることで相手に認められた気がするって話
ちなみにこの女性が僕がバーテンダーになって初めてプライベートでお食事をさせていただいた方です。
関連記事:バーテンダーになってオフの日に初めて連れて行ってもらったレストランの話
適当にやっていた就職活動と並行して働いていたバー。バーテンダーになりたいって想いとは裏腹になんとなくお洒落だからという理由でアパレル業界への就職も視野に入れていました。
ホント意識だけは高い癖に中途半端な行動しかしてなかった。
もちろん、こんな僕でしたからどこからも採用の連絡は来なかったんです。某アパレル企業の最終面接の際に人事の方から言われた一言は、「君はやりたいことがたくさんあるんだね」。思いの丈を嘘偽りなく語り尽くした結果、「こいつは考えがまとまってないな」って思われたんでしょうね。ま、事実まとまってなかったので人事の方は素晴らしい観察眼をお持ちだったってことで僕の完敗笑。
大学の就職支援課はしょっちゅう僕のケータイに電話をしてきては、「その後いかがですか?」って聞いてきました。ひとり就職が決まらないだけで学科として就職率が下がりますからね。できれば100%にしたかったんでしょう。ごめんなさいって感じです。
でも、もう心は「バーテンダーになる!」って決まってたから仕方ない。興味がない企業には興味がない。そんな表情をひた隠しにして面接に行ける大人らしさは僕にはなかった。
ってことで僕は就職先が決まらないまま卒業をする運びとなりました。そしてこの日はある意味「一般的な就職」「普通の就職」からの卒業も意味していました。
関連記事:出来損ないだった僕なのにゼミの先生だけは僕の夢を応援してくれた話
大学を卒業してバーの道を邁進しようと考えていたけど世間の目が気になって第二新卒採用面接を受けていた話
就職活動という仕事から卒業した僕はバーの仕事に対してどんどん楽しみが増え、頑張りました。ま、今思えば「めっちゃ頑張ってた!」ってほどじゃなかったですけどね。
まだアルバイト。マネージメントに関して一切関わっていなかったのでひたすらにプレイヤーとしてのスキルを磨く作業のみに集中。経営に関する数字なんてドシカト。
飲食業界は人手不足だ離職が激しいだ言われていて、ちょっと経験を積めば管理職の地位に就くことが少なくありません。
(実際に入社1年ちょっとで店長になった後輩もいました)
今となってはこういう時期が結構長かったことって幸運だったと思います。カウンターに立ち続けてただただカクテルを作り、ただただお客様に対して目を配ることだけを考えることができたので。完全に今の自分に活きているなって思います。
そして、入社して4年目を迎えた25歳の夏の夜。当時の店長からこう告げられたんです。
店長:「僕辞めるから、次は先生(←当時の店長からの僕の呼び名)が店長ね!」
関連記事:最初に働いていたメンバーが人事で飛ばされまくって大嫌いな新店長とタッグを組んでいた時の話
店長になってからの疾風迅雷の毎日
突然の店長指名から1ヶ月後。2011年6月1日。僕は店長デビューを果たしました。
指名された当初は今まで感じたことがないくらいの精神的不安定具合でしたが、数日経って思考を変えてみたら思ったより笑顔になれました。
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僕:「25歳で一国の主でしょ?恰好良すぎじゃない?」
単細胞でホントに良かったなって思います笑。
ですが、やはりそんな流暢に夢を語ってるだけで終わらせてくれないのが店長というポジション。困難が来る来る来る来る・・・。
側近のメンバー2人は年上。どうにもこうにも合わない部分が多すぎて結局1人は会社の意向と僕の意向によって人事にて放出。もう1人は後に金銭トラブルというお土産を置いて無断退社。残った希望の星だった若手は謂れのない罪を着せられて退社。
お客様の大切なコートをメンバーがキャンドルの火で焼いてしまって6万円の請求が来る。仙台から出張でいらっしゃったお客様のコートを別のお客様が間違って持って行ってしまって大クレーム。(一睡もせずに戻ってくるのを待ちました)預けたマフラーがないとお客様に詰められて4,5日ずっと電話口で謝罪。アルバイトリーダーに運営がうまく行っていないことをみんなの前で詰められて公開処刑・・・。
振り返ればめちゃくちゃトラブルまみれでした。でも結局のところ僕に力が足りなかった結果。もっと上手に事を進めることはできたはずなのに。
でも、僕、くじけなかった。ホントしんどかったし出勤するのが怖かった日々だってあった。でもきっとこの経験が将来に生かされると信じて何とか這いつくばって過ごしました。こんな経験なかなかできない。財産にするしかないでしょって感じで。
そうこうしているうちに気付けば周りにはたくさんの仲良しのお客様ができて、信頼できるメンバーに囲まれていました。
高校の時の担任の先生が言ってたことは正しかったとあの時思いました。
先生:「悪いことがあったあとには必ず良いことがあるように人生はできている」
30歳を期に始めた読書による自分革命
時は流れて2015年の夏。僕は人生の分岐点であると勝手に決めていた30歳になりました。
小さな頃、30歳の僕はめちゃくちゃ大人な男になっていて、格好良い車に乗っていて、大きなログハウスに住んでいて、愛する人と子供に囲まれて生活してるんだろうなって感じのことを漠然と描いてました。
が、現実はまだまだ未熟なガキんちょで、ペーパードライバーで、街中の賃貸に住んでいて、愛する人には何度もフラれてました。
ただ、毎日が楽しい職場と、頼もしいメンバーと、素敵なお客様と、行きつけの飲み屋が僕にはありました。
それだけでも幸せな方、いや、だいぶ幸せな人間なんだろうなって。
僕:「でもこのままじゃいけない。もっと格好良い30代にならなければ!」
そう考えた時に「格好良い30代の男って何してるかな?」って問いの答えを僕は持ってたんです。
それが「読書」。
理由は「なんとなく」。
スタバで読書。
公園のベンチで読書。
地下鉄で読書。
寝る前ベッドで読書。
なんとなく、ホントになんとなくなんですけど、格好良い30代の男は読書をしているイメージがあったんです。
今まで真っ当に読書なんてしたことがなかった僕。大学時代に読書という行為に格好良さを感じて江國香織さんの本(当時流行った”冷静と情熱の間”という小説)を何冊か読んでは見たんですけど、内容とかじゃなくて単純に読書しているという事実に酔っていただけだったので何の意味もなかった。事実、その小説の内容を僕は今まったく覚えてませんし。
僕:「よし!読書男子になるぞ!」
そう決めた僕はさっそく興味のあるタイトルの本や小説を何冊か買いました。そしたらですよ、ハマってしまったんです。読書に。持って生まれた才能が目覚めたんですかね笑。
最初に好きになった人は小説家の山田悠介さん。「リアル鬼ごっこ」で一世風靡した彼の小説は難しい漢字や単語が少なく、そして思いもしない展開の連続でめちゃくちゃ面白いんです。(当時、発売されていた彼の小説はすべて読み尽くしました)
そして、自己啓発系やビジネス書なんかも手に取るようになり、それもこれも自分の知らない未知の世界観で一気にのめり込んでいきました。
現在、僕は毎月数冊の本を買って日々読み漁っていますが、感覚的に頭が良くなった気がします。なんか言葉が昔よりもスッと出てくるようになったような。ま、この辺の話は別枠で。
関連記事:僕が思う「読書」による3つの自己成長
遂に独立開業
2022年8月1日。今までお世話になったバーを退社し、遂に念願のバーを開業することができました。こんな僕が自分の城を持つまでに成長できたこと、今振り返っても奇跡だなーってほんとに思います。
為せば成る。
あとがき
気付いたらめちゃくちゃ長文になってしまいました・・。
こうやって昔の自分の事をスラスラと書けるのはきっと毎日に不安を感じていたり、どこかしっくりこないなって感じていたりしたせいかもしれません。いや、てかそう!笑
グローバルな世界で生きているわけでもなく、日本全土を渡り歩いてるわけでもない。地元札幌でずっと暮らしてきたからこそ見えた景色、そして出会えた人々に心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
(↑なんだこの湿った〆の挨拶は笑)
yuki_nicccy
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